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「戦メリのメロディーは30秒で思いついた」坂本龍一さんが抱えていた、偉大すぎる業績に縛られる苦悩 - au Webポータル

坂本龍一さんの苦悩とは

 例年よりもひと足早く満開を迎えた桜が葉桜へと変わり始め、東京は花曇りの空模様となった3月28日、数々の名曲を世に送り出してきた坂本龍一さんが家族に見守られながらこの世を去った。71才だった。やせ細り、多くの管が体に入った状態だったが、最後まで気丈に振る舞い、がんとともに生ききったその表情は、どこか穏やかな様子だったという。

【写真】口髭顎髭で丸刈り、坂本龍一さんと事実婚妻Aさんとの息子・空音央氏。他、白シャツ姿のYMOメンバー、笑顔の坂本美雨も

 坂本さんは、老舗の出版社「河出書房新社」の編集者で、三島由紀夫や高橋和巳などの作品を手がけた父と帽子デザイナーの母のもと、1952年に東京都に生まれた。母の影響で小学校に入る前からピアノを習い、10才頃から作曲を学び始めるという神童で、14才のときには音楽家・ドビュッシーの生まれ変わりを自称するほど音楽にのめり込んだという。

 都立新宿高校在学中は学生運動が盛んな時期で、坂本さん自身も趣味の音楽活動や読書の傍ら、学生運動に加わっていたこともあった。

「新宿高校では同級生の塩崎恭久さん(元官房長官)や下級生たちと制服制帽や試験、通信簿の廃止など7項目を訴え、校長室を占拠し、バリケードで封鎖したこともありました。新宿区内にはいろいろなセクトの拠点もあり、坂本さんが中核派の一員だったのではないかと噂されたこともありますが、本人は否定しています」(坂本さんの知人)

 その後、難関の東京藝術大学に進んだのは、高校の先輩の一言があったからだ。

「高校1年生のときに、藝大に進んだ先輩の前でピアノを披露したら、“その腕前なら、いま受験しても合格する”とお墨付きを得て、その言葉通り、特別な受験対策をすることなく合格したそうです」(前出・坂本さんの知人)

 大学院在学中にスタジオミュージシャンとして活動を始め、「YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)」を結成したのは1978年のこと。

「元はっぴいえんどの細野晴臣さんの誘いに『やってもいいですよ』と応じ、元サディスティック・ミカ・バンドの高橋幸宏さん(享年70)が加わりました。当時、音楽シーンの最先端だったシンセサイザーなどの電子楽器を東洋的な音楽の世界に持ち込み、『テクノポリス』や『ライディーン』といったヒット曲を作り出しました。音楽だけでなく、ファッションも斬新で、3人の髪形に由来したテクノカットは瞬く間に流行し、社会現象にもなりました」(音楽関係者)

 1982年には忌野清志郎さん(享年58)とコラボ曲『い・け・な・いルージュマジック』を発売し、メイクを施してテレビ出演するように。ただ、“ドビュッシーの生まれ変わり”がこうした活動をすることを快く思わなかった人物もいた。

「坂本さんのお父さんです。純文学の編集者だったお父さんは、坂本さんに対して、『ピエロにするために藝大へやったのではない』と苦言を呈したこともあるそうです」(文芸編集者)

 その後、1983年に坂本さんは人生を変える作品と出会うことになる。大島渚監督(享年80)による映画『戦場のメリークリスマス』に出演し、役者としてビートたけしやデヴィッド・ボウイ(享年69)らと共演しただけでなく、音楽も担当したのだ。YMOのイメージとはまったく異なるさみしげなピアノの音色は、坂本さんを日本人として初めて英国アカデミー賞作曲賞に誘った。

「坂本さんは、こうしたチャンスをくれた大島監督に対し、大恩人だと繰り返し感謝していました。そして、その大島監督とカンヌに行ったときに紹介されたのが、ベルナルド・ベルトルッチ監督(享年77)です」(映画関係者)

 カンヌでベルトルッチ監督と接点ができた坂本さんは、その縁で1987年公開の大作『ラストエンペラー』でも音楽を担当。同年のアカデミー賞で、日本人として初めてアカデミー作曲賞を受賞した。

「当初のオファーは、役者のみでした。ところがすべての撮影が終わって半年後に、突然プロデューサーから“音楽を1週間で仕上げてほしい”と依頼されたそうです。それに対する坂本さんの返事は“2週間もらえるなら”というものでした。『戦メリ』のメロディーを30秒で思いついたという坂本さんですが、このときはほぼ不眠不休で仕上げたそうです」(前出・映画関係者)

 以来、坂本さんの才能は世界中の映画人の知るところとなり、著名人からのオファーが殺到。『ゴッドファーザー』で世界的俳優となったマーロン・ブランド(享年80)からは新作の脚本が送られてきたこともあったという。ただ、坂本さんをスターダムに押し上げたこの偉業が後年、坂本さんを苦しめることもあった。『婦人画報』(2022年3月号)ではその心境をこう表現している。

《まだもう少し挑戦しないと、「『戦メリ』が一番よかったで終わりかよ」っていう、自分の中でそういう気持ちがあるんですよ。『戦メリ』一曲じゃまずいだろうって》

 一方で同年6月発売の文芸誌『新潮』では《坂本龍一=『戦メリ』のフレームを打ち破ることを終生の目標にしたくはない。そのゴールに向かって、残された時間を使うのはアホらしい》とも綴っている。天才ならではの葛藤と、偉大すぎる業績に縛られる苦悩がうかがえる。

※女性セブン2023年4月20日号

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